「音楽をしている人は変」

タイトルの通り、たびたび

「音楽している人って変な人が多い」

という話にぶち当たることがある

変な人が音楽をやっているというよりは、自分の殻を破って正直に自己表現していて、結果的に変に見えてる、という方がどちらかというと正しい気がしている

つまり「自己表現において成功している」とほぼみなしていい

(害があれば表現事故である)

その辺の話だと、もう私なんか一体どうなるのかwwみたいな(たぶん見方によっては変態ですからねぇ)

この表現というもの。。。音楽や絵画や記述などいわゆる芸術に頼らなくても、一日中自分を表現出来ている人にとってはそれらによってあえて表現する必要は特になく、逆にそういった人がそれらに真剣に向き合っているのかというと、それはないように感じる

もちろん誰にとっても自由はあると思うけども、口下手な人間からすると、残された表現というのは音楽などそれら芸術分野になるわけで、おそらくそれなりのプライドを保って扱っていると思う

私はどちらかというと何でもやり散らかすタイプなので、物事が面白いか面白くないか、そこにいる人たちが好きか嫌いかでしかほぼ判断していない(嫌いな人もいませんけどね^^)名前を残す残さないとかももちろん人並みには考えるけども、実際固執してはいないので、残す方が苦痛になったり、やっていることが面白くなくなったらたとえ数字が出ていても必ず辞めるようにしてきた

SNSだってそう、最初の話からズレてグループ内で忖度が始まれば、それまでのフォロワー数や著名人を含んでいたなどもどうでもよく、あっさり捨ててきた。本音の見えないグループは私にとってかなりの苦痛である

これらは私の中ではハッキリしている

そもそも私は誰かを立てるためだけに生きているわけではない。誰かを立てても二番煎じ三番煎じと後回しならまだしも、結局はことごとく裏切られてきたからであるし、賭け事に近いものもあり、デメリットばかりでメリットが何もない。

必要な情報を隠されて思い通りにされようものなら簡単に勘づいてはしまうもののそれだけではストレスにはならないし、どこでもある話

ストレスになる場合はなにかというと、私の意思を全て犠牲にしてまで相手に追従せざるを得ず、しかもまったく望んでなかった結果になった場合(つまりなんもメリットがない場合w)一択である

さらに後悔と反省と恨みだけはしっかり残るから、それで心の補給も出来ず歩けなくなるのが辛くて仕方がないわけであるw

これ、誰でもそうだと思うけども、実はここに至る条件というのがある

単純な話、ほとんどが自分の意思を明示していないから起こるのだが、しなければならないことに追われつつもどこに行っていいか分からず人の話を信じやすかったり、弱気になっていた時の世界観で物事を決めてしまった場合の、典型的な副作用である

やりたいことをやる・・・言うのは簡単なんだけど、もちろん置いていけない人や捨てられない物もあり、そんな時は引き摺りながらでも進むしかないわけで、自分だけが生き残ろうとする者に踏み台にされたり持ち物を奪われたりされた事だってあるわけだ

置いていけない人、捨てられない物、、、これらを断捨離することは歩みにおいては非常に重要な場合もあるだろうが、約束をした以上、引き摺ってでも連れていかなければいけない人だっているし、歩んだ先においてなくてはならない物だってある

自分の中での一貫性として守るべきものを守っているだけなのだが、一生懸命なのにもかかわらず疲れた時にたまにつけ込まれてしまうこともある

だから私は約束と話の筋を守れない人間だけはどうしても信用出来ないし、許容すら出来ない。もちろん諸事情によって話は変わるものだけども、じゃあ契約変更しましょうよって思うよ。

そういった事が今まで延々と続いてくると、もはやその辺をバネにしないと生きてはいけなくなってくる

対等さの維持。。つまり私は、この一貫性と同じ考え持つ人、同調してくれる人を探し続けている事になる。残り少ない人生の中で非常に重要なことである(長生きするかも知れんけど)

だからこのブログを含む自分なりの表現は出来るだけし続けなければならないね。。

 

ではバンドはどうかというと、その辺の存在意義を示すという小難しい話よりは、単純に

 大人の遊び(ただし本気)

なだけである(小難しい話の後でアレですが。)

ここに至る考えや性格は前述の通りであるが、そこに誰それ巻き込むわけにもいかない。それに真面目に歩むばかりでなく、時に脳には休息というか、思考の転換も必要なわけである

確かにそう。休日だからといって一日中寝ていれば、サザエさん症候群(月曜日に学校や仕事に行きたくなくなる病)になりやすく、ガラッと非日常を味わう方がリフレッシュは出来る。美味しいものを食べる日にしてもいいわけだし。。

そんな時に役立つのが芸術である

自ら異世界を作りだして、そこに浸る。そうやって非日常を味わい、普段のストレスから解放される日があってもいい。子供のように表現の限りを尽くすべきだ

こういった日にたまたま出会うのが「大人のくせに変な人」なのであろうw。。。でも私に言わせれば、それが普通なんだと思う。女子だからと言って腕力をなめてもいけないし、男子だからといって心も100%男子とは限らない(w)

見た目と精神のギャップがいつの世も話題になっているが、ここを埋め尽くすヒントはそろそろ出揃ってきた。元々表現は自由であり、その奥にある性別を超えた人間性の部分が今からはより重要になる

セクシャル含めて、外見はどんなに変に見えたとしてもやはり真心だけは捨ててはいけないものであろう

 

ただね、、、

女装して女子風呂女子トイレ入るとかいうのは

マジでやめてくれんか(; ・`д・´)

(そこまで発達することはおそらく未来永劫ないw)

そういった貴様らホンマもんの変態のせいで私を含む多数のマイノリティ(ちょっと言葉が矛盾しているがw)が同じ目で見られ、表現が制限され生き辛くなるわけだ

(そもそもそこに何のメリットがあんのよドアホwww)

いくら自由な自己表現ってったって犯罪はダメだ、ダメ(´・ω・`)

・・・どうしてもってならそういうエロ漫画描くとかそういうビデヨとか映画作るとか、芸術を以ってグレー(すれすれ)でゆけグレーで!

つまるところ、こういったものは短絡的思考で度を越して自己主張が過ぎるわけだ(もはや病気といえばそれまでだけども)。しかし真心さえ持つよう心掛けていれば、需要だけでなくそもそもそういったことをされた側の気持ちも理解出来るだろう

真心とは偽善ではない。偽りなく誠心誠意を尽くす心とは言うもののそれだけではなく、視点を物事の中心に据えて、表と裏、左と右、SとN(SとMじゃないぉ)などの両極を適切に判断できる心の在り方のことを言っている

一つの物事には相反する二つ以上の側面が必ずあるから、善と悪があるとすれば、さらにその善側、悪側のそれぞれの両側面までを見極めないと、おおよそ差別・偏見の目からまず救われることはない。でもそんなに難しい話でもなく、どんな苦境においても誰もが上手く行くことを望んでさえいれば真心はちゃんと手に入れられる(これだけは金じゃ手に入らん)

こういった犯罪の報道では真っ黒々な話でも裁判では次第に事情が明らかになってはいくが、やはりそこを理解してくれるのはごく少数、場合によっては一人もいない時もあるだろう

遺伝、生い立ち、環境、挫折etc・・・複雑な要因で心に穴が空いたまま大人になってしまうと、なかなかそこに気づけないまま過ごすこともあるだろう

望んでいなくてもいつの間にか邪心が育つことだってあるわけだ。それも理解している

 

でもだからといって

ダメなもんはダメだからw(; ・`д・´)

 

・・・人から変だと思われるのは全然いいが、ホンマもんの変な人間にならないためにも、ちゃんと芸術で勝負しようではないか。笑

 

そのための妥協は一切しない方がいい