続けられない罪悪感。

罪悪感といっても、誰かに対してではなく自分自身に対して沸き起こるのが、この、

「続けれられない」

という罪悪感。

 

続けられないもの・・・例えば、「貯金w」だの「運動w」だの、挙げればキリがないのだけども、自分自身にとって良いことのはずだ!というものがとにかく続けられないわけである。。

ブログもそうだし、音楽もそう。

私は気分というものに支配されているので、気分が安定しないと続けることがで出来ないと、、、いや続けたくないと言い訳ばかりすることに罪悪感に苛まれるのであるw

 

継続は力なり、、なんてそんなこと誰だって知ってるし、私も幾度となく心でつぶやいてきた。

続けられないことがジレンマとなり、それそのものが精神的に悪影響をもたらすことも重々承知している。だけども、「続けられない」わけである。

 

さて、今までの人生の中で、何かを続けて自分のためになったものがいくつかある。

「水泳」・・・11歳のころ10mしか泳げなかった私が、スパルタの母からプールに投げ入れられ、12歳の小学6年生の時にはバタフライまで習得出来て、中学生時代には水泳部の選手にまでなれた事は私の中の達成体験としてはかなり大きく、その後の人生で「食わず嫌い」を判断できる材料になった。

水泳選手としての成績は大したものではなかったが、水泳の授業で「おなかいたいの・・・」とサボる私に自信をつけてくれたこの出来事は、今でも「不可能と最初から決めつけない!」という教訓を得られた

 

「音楽」・・・これも母である。幼少期にピアノやオルガンを習っているのにも関わらず、私は音楽発表会の時にはいつも「大太鼓w」や「シンバルのちっちゃいのw」を担当していたので、その不満もあって4~5年で辞めている。

しかし、楽典の基礎を習っていたおかげで、ギターを弾くことについてすんなり入れた事は大きい。

今でも続けている音楽は、この幼少期の習い事がなければなかったことであると確信している。

 

「習字」・・・これも母である(w)。小学2年から5年までの間に続けていたのだが、おそらくこのおかげで筆心を理解し、こういったブログ記事の作成やデザインついて考えるきっかけになっている。習字はアートの一種と理解していて、文章を書くこととはまた別の能力だと思うが、この筆をつかった絵=水墨画を描く発想にまで至ったところに、決して無駄ではなかったと感じる。

 

公文式」・・・小学1年~4年までだったと思う(5年からは塾に切り替わった)

この公文式というのは、先生が優しく教えながらも競争心をあおるという、アメとムチ方式で、負けず嫌いの子にはとても効果的であった。

私はなよなよしい割には負けず嫌いだったので、このおかげで足し算引き算かけ算割り算が得意になり、後のお仕事に対してかなり役に立っている。

 

そして今、この時点で残ったものは「音楽」だけである。

続け方としては毎日毎日を消費して作っているわけではないのだけども、この音楽というものを奥深くするために、様々なものに触れて学びを得られた事が多々ある。

音楽というものは、人によって様々なツールとなり、もはや私の人生においては切り離すことが出来ない。

一時期は行き詰ってしまい手放そうと思ったこともあったが、音楽を扱う者としては、「表現に躊躇しないこと」

この一択に尽きる。。

例えばSNSなどでの活字の発言では人を傷つけることもあるだろう。

音楽はまったくないかといえばそういうわけでもないが、感じ方は十人十色で、人によって色んな受け止め方があるから、実は音楽というものは総じて曖昧なものでもある。

その曖昧さは、実は人生において大切なものであると最近は思う。

はっきり白黒つけることをモットーとしていた私が、曖昧なもの=逃げることも立ち向かうことと同じくらい大切なものとして捉えて、音楽というものはより深みを増した気がする。

若さ故の捉え方、そして今の捉え方。

続けられない罪悪感は、この曖昧さの象徴として抱き続けるものなのであろう。。

 

・・・。

 

 

これにて自己解決(爆笑)