自己実現とは「欲望と苦しみ」。

先日、諦めれば済む、、というたった一言の気持ちをブログに書いた

諦めれば、すべてが楽にはなる

何を諦めるか?というと、自分の存在価値を高めようとすることのすべて

つまり自分が今持っているすべての自分の夢や人間関係などを捨てることでもある

 

自分の存在価値とは、これが言葉としては言い得て妙というか

・・・いい響きに聞こえはするが、世の中での分かりやすい言い方をすると「欲望」ということになる

(なるの!w)

(注:ここでの欲望とは「おまわりさんの厄介になるもの」は当然のごとく除外してますので悪しからずw)

悟りを得て、まさに万人から慕われるような生き方をし、支持され、そしてとんとん拍子に上手く行き、そういった土台で生活をすれば実際お金がそこまでなくともかなりの安心感が得られるが、残念なことにこれすらも長く続かない。必ずいつか終わる。もし、それが腑に落ちないのであれば、やはり欲望だったのである。

この欲望そのものにはもそもの責任はない。だいたい欲望というのはわがままなことであるから、そもそも他人には到底受け入れられないものなのである

しかし、一つだけ

欲望に人を巻き込むための方法もないことはない。最後までその責任を持つことなのである。だって巻き込んだのだから。

まあでも欲望に人を巻き込んであまり良いことはない。責任を持つといっても、その人なりのやり方にどうしてもなるから、合う合わないは当然出てくる。そこで人間、相手の弱みに漬け込むか、脅すか、、、、もしくは、利害で埋めるか、利害を作りだすか

このバンドというのもある意味”欲望の塊”である(笑)

チームが上手くいく方法は人間関係を良好に築くこととはいうものの、簡単な話、利害が一致しているかどうかである。利害なんてあり得ない、取引なんてしない、、、なんてことが成り立たない理由として、では、ほかの人が楽をして自分が忙しい思いをして、しかも誰からも認められない、感謝もされない、放っても置かれる、という憂目にあったら、平然としていられるだろうか。他のメンバーに感謝をするだろうか。。

長いこといると利害だけでなくもちろん情も生まれる。情があればもちろん絆は強くなる。ただ、情を生むためにはある条件が必要だ。した約束を必ず守るということだ。

完全でなくてもいい。その人なりのやり方を、反省をしながらアップデートして果たしてもいい。それが必ずしも相手の期待通りとはいかなくても、相手がどう感じるかがとても重要である。

昨今は「生きたいように生きる」「自分の軸で生きる」というキーワードが流行っている。もちろん悪いことではないし、そのような視点があって初めて自分というものを認識できる機会もあると思う。私もそう思っていた。しかしながら、その通りに生きるのはリスクだらけであるし上手くいかない。実は目に見えない絆などに助けられているのにも関わらず、慢心することで本物の孤独になっていく。その結果、体を壊して初めて分かることもある。

孤独は悪いわけではない。私も友人は少なく、自分から他人の輪に入ることはほぼないもので、私というものは誰からも受け入れられないのではないかという諦めは長い間あった。

特殊な経験をしているもので、それが人と違うことは十分理解していたし、そうなる理由も分かっていた。しかし、薬を服用したり、あるグループに入って妄信したりという事は私にとっては違う。そんな私が生涯を通して叶えなければならないものが、欲望なのである。

生涯を通すといっても、さほど時間があるわけではない。体調を崩された方なら分かるかもしれないが、時間は有限であることは思い知らされている。この世は欲望を叶えるために存在すると言っても過言ではないとすら思うし、恐らくはその欲望を叶えるための間に位置する「苦しみ」を経験するために我々は生かされているのはないか?と思う。

であれば、苦しみは経験すべき財産であるし、その苦しみがあるが故にこの世は楽しいものになるのではないかと。なので、

 

欲望は持つべき( *´艸`)

 

(苦しむがよいw)

 

挫折と再起の果てに完成したCIELO「FUNNY BOY」

youtu.be

 

再発起からおよそ約1年

ようやく最初の動画が完成した

実にCIELOとしては七年ぶりのフルアレンジ

この曲は、以前1stCIELOの時に着手はしていたのだけども、あーでもないこーでもないと色々なんだかんだあって、そのついでにCIELOも空中分解してしまったものである

私としては、当時のCIELOは先行きに限りが見えていたので、一生懸命ではあったのだが正直そこまで熱量が伴わなかったということなのであろう

何かしら魅力的な目標がないと続けるのも難しいもの

ただ単に曲を作る、とか、ただ単に動画を出す、ただ単にライブをやるとか、たしかに仲間と楽しむという面ではそれでもいいのだろうけども、私も含め、それぞれ身に着けてきたスキルや道具、イメージなどを具体的に表現していくことを目指してきた人には分かるかも知れないが、それを自分たちの力でどれだけ現実に反映出来るか?というところは、おそらく自分たちが死ぬまで永遠のテーマだと思う(人によっては死んでからも生き続けるようであるが。。)

 

私は物づくりが好きなのだが、私の大きな大きな欠点として、気が短いという点。つまり、なんでも早く完成させたいという欲求がすごい。

なのでプラモデルなんぞ満足に全パーツを組み上げて作った試しがないので困ったものであるが悩んではいない

でもね、これってけっこう誰にでも当てはまらない?

だって、それがなければみんな緻密にコツコツめんどくさがらずにやってると思うわけw

だから、これを逆手にとって、私は出来るだけ早くめんどくさい作業は終わらせるようにしている

めんどくさいからやらない、では、実は出来ない以上にタチが悪く、すべての物事に手間を省くものなので着手さえしないし、自分のやりたいことにさえ向き合うことが出来なくなる。その結果、必ず人の悪口や文句を言うし、それらを言うことによって安心してしまうせいか、もっとやらなくなる(爆笑)

早くめんどくさい作業を終わらせるというのは、なにも嫌なことを先にやる、だけではない。探し物を見つけやすいようにするとか、例えばキー操作やマルチタスクが必要な場面では、ショートカットを訓練で身に着けるという方法もある

つまり、通常100かかっていためんどくさい労力を、無駄な動きがないように訓練するだけでも10~20くらいに抑えることが出来ると思うわけです

音源や動画などを作っていくと、トラックというものがあってそれらをミックスしていくわけですが、こういった動画などを作成していくと、音源トラックだけでも30にはなりますし、映像トラックも15~になっていくわけです

中身の濃いトラックはその3分の1くらいだけども、管理すべきトラックの総数としては先の通り

それらを一つひとつ覚えてくと、とてもじゃないけど大変

早く終わらせるにはどうするか?を突き詰めていくと、結局、例えば音源なら録音をするところ。映像なら撮影するところ、こういった素材の部分の質をいかに確保するかになってくる

そしてそして、、、録音時にきちんと構想が固まっているか、固めようとしてるか?どの部分が固まってないか?そこはどうするか?をある程度まとめておかなきゃいけない。。。

そしてそしてそして、、、精神的な部分が最も重要で、

「この動画を成功させたいか?」

という気持ちがやっぱり根源だと思うわけですw

成功の定義は人それぞれですし、言えること言えないことあると思う。。

成功の定義はなんですか?と言われて真っ先に思い浮かぶのは、

「自分が何回も観たいと思うもの=自己満足」

と言えます

ただこの自己満足もね、実際は自分だけが嬉しいとか面白いとかじゃなくて、そこには観てくれた人など周りの反応や仕上がりや反省も含まれる

起案~公開まで、すべての行程でメンバーが納得してくれたか?が一番大事かもしんない。。

いや、ホントね、以前からよくメンバーには言ってるのですが、他人の素材を扱うのが一番気を遣うんですよ。。。だってね、人を堕とすも堕とさないも編集権限があると出来るわけでして、そういうつもりは一切ないっていうのを完成で見せないといけないの。。特にね、皆さんバンドやるってことは何かしら自己主張が強いと思うわけです。そして、それがあって当たり前とも思うし、それがないとつまらない・・・ということにもなりますが、自己主張を通すには技量や実現力も比例して伴うものだとも思うんです

バンドでもなんでもそうなんですけども、いつも気持ちとしては、チームが全員が「俺は!俺は!」だったら、一斉に「俺は!俺は!」ってなった方が面白いと思うんですね

でも現実はなかなかそうはならないですよね

隣のチームメンバーがうるさかったら「うるさい!」っていう気持ちの方が先に立つでしょう?それって、控えめにしてる自分がなんだか大人、なんだか偉いっていう気持ちもあると思うんです。でもそれも間違いではないと思いますし、同じ勝ち負けにこだわるにしてもやり方は異なりますね。うるさい!っていう人も、それをわざわざ言うということはやはり何らかの勝ち負けにはこだわってる人だと思いますので。。

で、俺は俺は!の中でも、うるさい!の中でも、私は隣の人への敬愛する気持ちは必要だと思っています

どんな間柄でも、隣人をリスペクトする気持ちはあって然りですし、私がチームに求めるものは細かい縛りでなく、それ一択です。個性的でどんなに面白い人間であっても、それがない人は排除に値します。それがないと何もかも絶対に向上しないので。。

ですが、相手の主張を飲み込む前提も個人個人それぞれあるわけですから、先の隣人をリスペクトという話の中では、行先は決まっているとはいえ私としてはあまり無理も言えないわけです。そこは待つしかないわけですが。。人を待たせてるという自覚があるかどうか探ることも大切ですね

・・・と、自己満足を得るにしても考え付くだけでこれだけの要素がある。。

なので決して悪いことばかりではないと思います

 

しちめんどくさいこと言わないでやるならとっととやれ!という事は重々承知ですし、私は元々そういうタイプの人間ですし、私の邪魔をするな!というどワンマンな考えでした

ですが、今一緒に歩いている人が、なぜ一緒に歩き始めたか?には、私も責任というか、どうせなら一緒にいい景色を見よう!いうところの約束を果たすことを、ここしばらくで考え始めてしまったのは、

・・・おそらく私に性欲がなくなったせいだと思います(*´ω`*)

 

ということで、これからもCIELO -FS-をよろしくお願いいたします☆

 

(wwwww)

 

 

続けられない罪悪感。

罪悪感といっても、誰かに対してではなく自分自身に対して沸き起こるのが、この、

「続けれられない」

という罪悪感。

 

続けられないもの・・・例えば、「貯金w」だの「運動w」だの、挙げればキリがないのだけども、自分自身にとって良いことのはずだ!というものがとにかく続けられないわけである。。

ブログもそうだし、音楽もそう。

私は気分というものに支配されているので、気分が安定しないと続けることがで出来ないと、、、いや続けたくないと言い訳ばかりすることに罪悪感に苛まれるのであるw

 

継続は力なり、、なんてそんなこと誰だって知ってるし、私も幾度となく心でつぶやいてきた。

続けられないことがジレンマとなり、それそのものが精神的に悪影響をもたらすことも重々承知している。だけども、「続けられない」わけである。

 

さて、今までの人生の中で、何かを続けて自分のためになったものがいくつかある。

「水泳」・・・11歳のころ10mしか泳げなかった私が、スパルタの母からプールに投げ入れられ、12歳の小学6年生の時にはバタフライまで習得出来て、中学生時代には水泳部の選手にまでなれた事は私の中の達成体験としてはかなり大きく、その後の人生で「食わず嫌い」を判断できる材料になった。

水泳選手としての成績は大したものではなかったが、水泳の授業で「おなかいたいの・・・」とサボる私に自信をつけてくれたこの出来事は、今でも「不可能と最初から決めつけない!」という教訓を得られた

 

「音楽」・・・これも母である。幼少期にピアノやオルガンを習っているのにも関わらず、私は音楽発表会の時にはいつも「大太鼓w」や「シンバルのちっちゃいのw」を担当していたので、その不満もあって4~5年で辞めている。

しかし、楽典の基礎を習っていたおかげで、ギターを弾くことについてすんなり入れた事は大きい。

今でも続けている音楽は、この幼少期の習い事がなければなかったことであると確信している。

 

「習字」・・・これも母である(w)。小学2年から5年までの間に続けていたのだが、おそらくこのおかげで筆心を理解し、こういったブログ記事の作成やデザインついて考えるきっかけになっている。習字はアートの一種と理解していて、文章を書くこととはまた別の能力だと思うが、この筆をつかった絵=水墨画を描く発想にまで至ったところに、決して無駄ではなかったと感じる。

 

公文式」・・・小学1年~4年までだったと思う(5年からは塾に切り替わった)

この公文式というのは、先生が優しく教えながらも競争心をあおるという、アメとムチ方式で、負けず嫌いの子にはとても効果的であった。

私はなよなよしい割には負けず嫌いだったので、このおかげで足し算引き算かけ算割り算が得意になり、後のお仕事に対してかなり役に立っている。

 

そして今、この時点で残ったものは「音楽」だけである。

続け方としては毎日毎日を消費して作っているわけではないのだけども、この音楽というものを奥深くするために、様々なものに触れて学びを得られた事が多々ある。

音楽というものは、人によって様々なツールとなり、もはや私の人生においては切り離すことが出来ない。

一時期は行き詰ってしまい手放そうと思ったこともあったが、音楽を扱う者としては、「表現に躊躇しないこと」

この一択に尽きる。。

例えばSNSなどでの活字の発言では人を傷つけることもあるだろう。

音楽はまったくないかといえばそういうわけでもないが、感じ方は十人十色で、人によって色んな受け止め方があるから、実は音楽というものは総じて曖昧なものでもある。

その曖昧さは、実は人生において大切なものであると最近は思う。

はっきり白黒つけることをモットーとしていた私が、曖昧なもの=逃げることも立ち向かうことと同じくらい大切なものとして捉えて、音楽というものはより深みを増した気がする。

若さ故の捉え方、そして今の捉え方。

続けられない罪悪感は、この曖昧さの象徴として抱き続けるものなのであろう。。

 

・・・。

 

 

これにて自己解決(爆笑)

 

 

 

CIELOホームページ開設。

rubiaashley777.wixsite.com

 

初のホームページを開設してみた

(以前はブログだった)

無料だからURLがちょっとうさんくさいが、ひとまず形になったのでうれしい

 

当ページには隠しリンクを搭載している

このリンクを見ると、実はある謎が一つだけ解けるようになっている

(・・・すぐ分かるがw)

 

CIELOは二つの謎を持つ

その謎が解けた時に、”本当の自由への道”がきっと開かれるだろう

CIELO FS

しばらくは書くことも目指すものもなかったのでブログも放置となっていた

でもCIELOを再開したことで少し落ち着いてきた

 

CIELOとは、動画コンテンツ中心のバンドである

CIELO。 - "朝食前の薔薇と真珠。"Pearls n' Roses Before Breakfast.

 

3rd Seasonを始めるつもりだったが、いかんせん方向性がズレていってしまったので、新たに組みなおした

 

それが

CIELO -FS- "ONLINE"

である

CIELO -FS- "ONLINE"

 

(はいはい、また始まったよ。。。と言わないで。w)

 

ちなみにCIELOロゴはイラストレーターの里奈ちゃんに作ってもらった

・・・ロゴがあるだけでなんだかバンドっぽい♡

 

FSとは、Fourth(4th) Seasonであり、Final Seasonの略である

文字通り、これでほんとのほんとの最後にすることにした

(はいはい。)

 

ちなみに第一作目は既に製作中であり、個人的にもなかなか良作

それから、第一作目デモというのはメンバーへの指標となるため、着地ないしゴールのイメージが共有出来るかどうかの重要な役割を担っている

このデモの反応が良好な場合は、イメージの共有に成功したということで素直にうれしい

 

以前も書いたが、イメージの共有が成功した場合は必ずメンバー内で話題になる

・・・失敗した場合は逆に沈黙となる

(気を使ってもらっても分かるw)

これが最初の一歩となるのだが、勢いというものが作る作品はやはり活魚のよう

(ぴちぴちやねんw)

活きたままささっと料理しないと美味しいものをご提供できないのは、レストラン他と同じことであろうと思う

 

つまり。

 

つまりだ。

 

・・・あまり時間をおいてデモは作るべきではない

一気に作るべきだ

だから体調とか精神状態とか時間軸とかのベストポジションでドン!といかないと難しいところがこのバンド、CIELOなのである(w)

 

 

心。

人はモノではない

誰しも分かっていることではあるが、忙殺されるこの世界の中で、他者にも自分にも最も忘れがちになるものでもある

容姿などの外見に反して、内面のすべてとも言えるこの「心」であるが、ここにはそれぞれ生まれながらのストーリーや希望、さらには体調や不安、恐怖を抱えているものであり、そして無形であるがゆえ最も見えにくく、最も深く、最も気づかれにくい存在である

目は口ほどにものを言う、ということわざがある

面白いことに、昨今ではマスクが流行ってるせいか、目で対話する機会も多くなって来た気がする

対話とはその名の通り、対等な位置関係での交流である

そして心に必要なのは、会話ではなく「対話」

対話とは、訴えであるとか、支援を欲しがっているとか、そう言ったことを相手がいつどれくらい欲しがっているのかとか、どれくらいで満足するのかとか、SNSの文字数ではおよそ語れないほどの情報は、実は目を見て対話をすれば早い時間で読み解くことが出来る

たまにポーカーフェイスが上手過ぎて、相手に対して錯誤を生み出せる人もいるようだけど(w)、今度は自身の言葉に責任を持たねばならず、いずれにしても相手にとって自己解決しなければならない事へと発展するのみで、さほど気にする必要はない事とも言える

つまり、ポーカーフェイスは心の窓を自ら閉め切る事であるわけで、次はなぜそうする必要があるのかの部分に関心が行きやすいから、行動に不合理が生まれ大なり小なり誤解や虐めに発展しやすくなる

ただ、後天的な話ならいざ知らず、生まれながらにして自分を閉ざしてしまう事も少なからずあるわけで、本人にとってどうしようもない事を他者がわざわざ変えようとするのは、これはまた対話とは程遠い

私もだけども、つい、他者を自分の気持ちの中に封じ込めてしまおうとしてしまう事がある

良かれと思ってやっていた事も、実は相手のためにはまったくなってない時があるし、大きなお世話になる事も多い

心の成長のためには、相手が自立して考えるためにはどうすればいいか?の部分で思考を張り巡らせる方が適当であると言える。。。

 

 

が。

 

 

 

理屈は理屈。

 

 

 

それはそれ。

 

 

私が察して欲しいのに

察してはあげられんwwwヽ( ̄д ̄;)ノ=3=3=3

(電池切れ)